ダイエットと科学①

「科学的であるということの落とし穴」

数十年、或いは数百年前では極一部の富裕層だけに問題であったであろう生活習慣病は現在の日本では万人の問題に広がっています。これだけ規模が広がると当然でてくる様々なダイエットに関する情報ですが、真偽のほどは見極められるでしょうか。今回は本題に入る前に、最近広告を見て気になったことを例にとって説明します。
科学誌にも掲載されてた論文ですが、ある特殊な成分が入った化粧品の効果を調べるために、被験者の顔の片側に塗布し、もう片側には何も塗らず、一か月後に肌の評価をしたところ有意に化粧品を塗布した側の評価が良くなったというものです。しかしこれには気になる問題点がいくつかありました。
まず一つ目に、特殊な成分が入った化粧品を片側に塗る、ここまでは良いですが、もう片側には何も塗っていないことです。つまり、化粧品を塗ったか塗って無いかの比較になってしまい、特殊な成分が入っているかどうかの比較になっていないことです。厳密に試験を行うなら片側は特殊な成分入りの化粧品、もう片側は特殊な成分を入れない化粧品で比較すべきです。
二つ目は観察者(医師など)と被験者の双方に効果がある(と思われる)化粧品の存在がわかっていることです。これは一つ目の問題と重なりますが、片側にだけ化粧品を塗っている為、そちらに良い効果があるに違いないというバイアス(思い込みや隔たり)が生じる可能性があります。そうすると結果に対しても不公平な判断をしてしまうかもしれません。正確に試験するならば、特殊な成分入り化粧品(A)と、特殊な成分のみ省いた化粧品(B)を用意し、観察者は被験者に化粧品の内容を知らせずに渡して片側ずつ塗ってもらい、同時に被験者は観察者に対して、(A)、(B)の化粧品を顔のどちら側に塗ったかを知らせず評価を行う。観察者、被験者双方でバイアスが生じない方法(二重盲検試験)を行うのが最良です。
今回のケースでは化粧品を塗ったほうが良いという結果はおそらく間違いは無いと思われますが、特殊な成分が入っていることを売りにするには科学的根拠が無く、評価方法も適正とは言えない、という評価になります。
そうすると疑問に思いますよね。なぜ適正な試験を行わないのか。論文には触れられていなかったので推測にしかすぎませんが、おそらく行ったのではないかと思われます。研究を行っている者にとっては指摘する要素が多い論文だった為、当然試験を行ったところもそれは認識しているはずです。もし適正な試験を行っていたのならば、なぜそれを発表しなかったのか。これは科学の世界の問題点ですが、公表しないデータはウソではない、という点です。公表したデータにウソがあれば問題ですが、都合が悪いだけでデータそのものにウソがないものは公表しなければ問題が無い(指摘さえされなければ)のです。
今回のケースに当てはめれば、特殊な成分を入れたものと入れなかったものでは差が無かったが、化粧品を塗ったか塗って無いかでは差があった、では商品としてのインパクトは無くなりますよね。本当に自信があるなら適正な試験結果を公表するでしょうし、そうしないならデータを隠していると、見る人が見れば邪推するわけです。
もちろん、隠しているだけなら問題が無い、というわけではなく、チェックする機構はあります。医薬品であれば副作用を意図的に隠したとあっては大問題になります。ただ今回の例は医薬品ではなく化粧品(制限が比較的緩い)であることや、チェックする人に依存する部分、過不足があっても問題が無いと判断されれば論文として掲載されてしまいます。嫌な言い方をすると、適当な内容でも掲載される雑誌は評価が低く、掲載されただけで文句のつけようのない科学論文である、ということでは無いということです。
このように科学的に妥当であるかどうかという判断は一般の方では難しいと思いますが、機会があれば実例をもって、どのような思考が科学的であるかを紹介したいと思います。
次回はダイエットにまつわるウソを排除し、ダイエットに繋がる科学的考察についてお話します。